静寂のオフィス、夜更けの甘い気配――寿子の初めての残業
蛍光灯が放つ白い光は、夜のオフィスにどこか孤独で凛とした雰囲気を作り出していた。外のビル群はすでに窓の向こうで闇に沈み、ただ時折、車のヘッドライトが街路を照らすだけ。人々が帰路につき、通りからも笑い声や足音が消えたあと、このフロアに残されているのは、課長のひろしと、そして新入社員の寿子だけだった。
寿子はまだ二十二歳。入社したばかりで、どこか初々しく、オフィスに漂う大人の世界にもどこか馴染みきれていない様子だった。細い指先でキーボードを叩く姿は、どこかぎこちなくも真剣で、ふとした拍子に眼鏡の奥から覗く瞳は、無垢な輝きに満ちている。
静寂の中、かすかに響くのは、二人だけの作業音と、それぞれの淡い呼吸。寿子の息遣いは、時折、小さく波立つ。彼女の座る椅子がわずかに軋むたび、ひろしの意識は自然と寿子へと引き寄せられていく。
時計はすでに夜十一時を過ぎていた。普段なら絶対に味わうことのない、夜更けの職場の空気。寿子はその異質な静けさに、どこか心細そうに身を縮めながらも、ひたむきにパソコンへ向かっていた。
「……課長、この表、ここで合っていますか?」
寿子は小さな声で問いかけ、席を離れてひろしのデスクへと歩み寄る。その仕草には幼さが残り、社会人になったばかりの初々しさが滲んでいる。無意識なのか、あるいは緊張ゆえなのか、白いシャツの襟元が少しだけ緩み、首筋から肩にかけての滑らかなラインが、蛍光灯の下でわずかに浮かび上がった。
ひろしは資料に目を落としつつも、寿子の気配に意識を奪われていく。隣に立つ彼女から、ほのかに甘いシャンプーの香りが立ちのぼる。その香りは、仕事の疲れを忘れさせ、オフィスの夜に淡い彩りを与える。
「大丈夫、合ってるよ。ここも……丁寧に作ってくれてありがとう。」
寿子はその言葉に安堵したように、小さく微笑む。だがその微笑みの奥には、まだ見ぬ世界への憧れのようなものがちらりと覗いていた。
「……私、まだ仕事が遅くて……。課長の役に立ててますか?」
かすれそうな、けれど純粋な期待を孕んだ声が、夜の空間にふわりと溶けていく。
ひろしはうなずき、優しく答えた。「寿子はとても頑張ってるよ。無理しないでね。」
寿子は少し恥ずかしそうに俯く。肩まで伸びた髪が頬にかかり、うなじの白さが一瞬だけ覗いた。
「……はい。」
遠慮がちに返事をした寿子は、また自分の席へ戻る。その後ろ姿には、どこか影のような儚さが宿っていた。オフィスの椅子が静かに回る音、パソコンの小さな冷却音、それらすべてが夜の静けさのなかで微細なリズムを奏でていた。
しばらく、二人の間に言葉はなかった。それぞれが自分の仕事に没頭しつつ、しかし互いの存在を意識し合っている。そんな妙な緊張感と甘やかな期待が、オフィスに薄く漂い始めていた。
寿子はときおり目を上げ、ひろしの背中をちらりと見つめている。その視線には、淡い好奇心と、未知の感情がまじっていた。
彼女はずっと、男性に対してどこか距離を置いて生きてきた。交際経験もなく、友人たちが恋愛の話で盛り上がるたび、寿子はただ微笑み、聞き役に徹していた。でも今、この夜のオフィスで、寿子の心には何か新しい芽が静かに息吹いていた。
ひろしもまた、そんな寿子の変化に気づきつつあった。ふと手を止めて彼女を見ると、寿子はすぐに目を逸らす。赤く染まった頬が、ひろしの心を不意に揺らす。
「疲れてないか?寿子、もう帰ってもいいんだぞ。」
「いえ、大丈夫です。……課長と一緒にいると、不思議と、落ち着くんです。」
寿子の小さな呟きが、夜の静寂に吸い込まれていく。
「そうか……。でも無理はしないでな。」
「はい。」
そのやりとりは、ごくささやかなものだった。だが寿子の中には、小さなトキメキが広がっていく。どこか胸がくすぐったく、いつもより心臓の音が大きく感じられる。
パソコンのモニターに映る自分の姿をぼんやりと見つめ、寿子はそっと唇を噛んだ。なぜだか顔が熱い。胸の奥がそわそわして、これまで知らなかった気持ちが溢れてくる。
(どうして、こんなに……。)
寿子の心の声が、小さな波紋となって夜の中に広がる。
彼女は決して自分から距離を詰めたり、積極的に話しかけたりはしなかった。特に男性に対しては、極端に臆病で、学生時代も男子とまともに目を合わせたことすら少ない。自分はきっと、ずっとこのままだと思っていた。でも、今夜は違う。
ひろしの優しさが、寿子の世界に新しい光を差し込む。
もう一度、資料の確認を頼もうと立ち上がると、ふと脚が机の脚に触れて、小さくバランスを崩した。ひろしがそれに気づき、そっと支える。
「大丈夫か?」
「……はい。」
寿子の指先が、ひろしのシャツの袖に軽く触れる。わずかに重なった二人の距離。鼓動が跳ね上がり、寿子は思わず顔を背ける。
手の温度が、しばらく指先に残っていた。
「……ごめんなさい、私、どんくさいから……。」
「そんなことないよ。最初は誰だって、失敗するもんさ。」
ひろしの言葉は、寿子の心をふんわりと包む。オフィスの空気が、少しだけ和らいだ。
やがて、時計の針がゆっくりと深夜へ近づいていく。寿子は書類をまとめ、机の上に小さく並べ直す。その仕草ひとつひとつが、どこか慎ましく、淡い色気すら感じさせる。
「……課長、今日は本当にありがとうございました。」
寿子は、きちんと頭を下げて礼を言った。だが、その声には今までにない温かさと、わずかな期待が混ざっていた。
「こちらこそ。寿子がいると、助かるよ。」
寿子は、そのまま上目遣いにひろしを見上げる。夜のオフィスに、ふたりきりの静寂が続く。
もし、この夜がもう少し続くなら、寿子はどんな自分になれるのだろう――。そんな予感が、心の奥に静かに芽生えていた。
オフィスのガラス窓に、寿子の横顔が映る。ふいに風がビルの隙間を抜け、わずかな揺れがカーテンを揺らす。その音を聞きながら、寿子はこの夜を少しだけ名残惜しく感じていた。
誰もいない空間で、まだ知らない自分に出会うための序章。
この夜の続きを、寿子もひろしもまだ知らなかった。
だが確かに、ふたりの間に何かが芽生え始めている――
静かな残業の夜、その予感だけが、優しくオフィスを満たしていた。
げーみんぐはーれむ総集編I
1,375円


コメント