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【起点】学園都市第七学区、進路指導室――逃げ場を、一つずつ潰されて
七月の、第七学区。
常盤台中学の下校時刻を告げるチャイムの音が、木々の間から降り注ぐ激しい蝉時雨に溶け、そしてかき消されていく。
アスファルトから立ち上る陽炎が、学生たちのシルエットを揺らしていた。普段なら、その熱気すらも心地よい放課後のスパイスのように感じられたはずだった。しかし、今日の美琴にとって、肌を焦がすような日差しは、ただ息苦しさを助長するだけの重圧でしかなかった。
「お姉様、今日こそ寮でご一緒しませんこと? 例の、ゲコ太の限定シールが手に入りまして……」
背後から、聞き慣れた明るい声が響く。ジャッジメントの腕章をまだ制服の袖に付けたままの白井黒子が、弾むような足取りで駆け寄ってきた。彼女のトレードマークであるツインテールが、夕方のぬるい風に揺れている。その無邪気な笑顔を見ると、美琴の胸の奥で、チクリと小さな痛みが走った。
「……ごめん、黒子。今日、ちょっと用事があって。坂口先生から、進路指導の呼び出し、来ちゃっててさ」
美琴は、なるべく自然な笑顔を作ろうと努めた。しかし、自分でも声が少し上ずってしまったのが分かる。
「まあ、担任直々の呼び出しですの? お姉様のような非の打ち所のない優等生に、進路指導なんて、一体何を話すことがおありなんですの?」
黒子は不思議そうに首を傾げた。その瞳には、美琴への絶対的な信頼と尊敬だけが宿っている。
(……朝、机の中に無言で差し込まれていたあの一枚の紙……あれは、明らかに普通じゃなかった……)
心の中で呟きながら、美琴は笑って手を振った。
「大したことじゃないと思うんだけどね。それじゃ、また寮で」
黒子に背を向け、旧校舎の方へと続く渡り廊下を歩き出す。一歩、また一歩と進むごとに、中庭の噴水の涼しげな音が耳の中で遠のいていく。第七学区の空は、まだ明るい茜色に染まり始めたばかりだったが、旧校舎へと続く廊下は、まるでそこだけ時間が止まっているかのように薄暗く、空気が淀んでいた。
進路指導室の前に立つ。木製の重い扉は、その向こう側にある空間を外の世界から完全に隔絶しているように見えた。
深呼吸を一つして、ノックを二度。
「入れ」
扉越しに響いたのは、低い、ひどく事務的な男の声だった。
美琴は少し躊躇いながら、冷たいドアノブを握りしめ、扉を開けた。
開けた瞬間、むっとした空気と古い紙の匂い、そして安っぽい芳香剤の香りが混ざり合った独特の匂いが鼻をついた。窓際にある大きな机に座っていた担任の坂口が、ゆっくりと顔を上げる。
眼鏡の奥にある細い目が、扉の前で立ち止まった美琴の姿を、上から下まで、まるで値踏みするように舐め回した。
綺麗に整えられた常盤台の制服の襟元。少しだけ膨らみ始めた未成熟な胸元のリボン。指定の丈を厳守しているはずのスカートの裾。そして、膝下まで伸びる白いソックス。
そこに、本来なら教師が教え子に向けるはずのない、粘度のあるねっとりとした熱気が確かに含まれていた。美琴の背筋を、まるで氷の欠片を滑らせたような微細な鳥肌が走り抜ける。ジャッジメントへの協力でこれまでいくつもの厄介な事件に関わってきた彼女の鋭い直感が、激しい警報を鳴らしていた。だが、その警報が具体的に何を意味しているのか、まだ彼女の思考は正確に言語化できていなかった。
「……失礼、します。坂口先生、用件ってなんですか。私、この後、寮の門限もあるんで、手短にお願いしたいんですけど」
門限を持ち出したのは、無意識の防壁のつもりだった。「早く帰りたい」「長居はしたくない」――その意志を示すことで、この部屋を満たす異様な湿り気を少しでも払拭したかった。
「まあ、そう身構えるな、御坂。座れ」
坂口は表情を変えることなく、顎で机の真正面に置かれたパイプ椅子をしゃくった。
美琴は唇を噛み締め、後ろ手で重い扉をカチャリと閉めると、五歩の距離を詰めた。パイプ椅子に腰を下ろすと、坂口との距離は、もう机一つ分しかない。彼が少し手を伸ばせば、すぐに届いてしまう距離だ。
「単刀直入に言おう。御坂、お前、このままだと進級が危ういぞ」
「……は?」
一瞬、言われた言葉の意味を掴み損ねた。美琴は、学園都市に七人しかいないレベル5(超能力者)の第三位であり、名門・常盤台中学においても常にトップクラスの成績を収めている。進級が危ういなどという言葉は、彼女の辞書には存在しないはずのものだった。
「ちょっと、待ってください。冗談ですよね。成績なら、実技試験も座学のテストも、常に上位をキープしているはずですけど」
「表向きの数字は、な。俺が言ってるのは、必修科目である『特別倫理講習』の出席日数のことだ」
坂口は引き出しを開け、机の上に一枚の出席簿の写しを放り投げた。そこには美琴の名前があり、その横のマス目には、朱書きで「欠」の文字がいくつも、無惨なほどに並んでいた。
「……それは、ジャッジメントの協力要請とか、警備員との共同案件で、どうしても外に出なきゃいけなかった分です。単位読み替えの特別申請書、私、学期始めにちゃんと提出して、受理されてるはずですけど」
美琴は椅子から立ち上がりそうになるのを堪え、声を荒らげた。
「規定が変わったんだ。今学期からな。実地活動での単位読み替えは、いかなる理由であれ、もう認められないことになった。このまま行けば、来週の教授会、そして理事会の審議に上がる」
坂口の口調は、まるで他人事のように乾いていて、一切の感情が読み取れなかった。だからこそ、美琴の胃の底に、冷たくて重い鉛のようなものがじわりと広がっていくのを感じた。
(……審議会……常盤台の理事会にまで……)
進級の危機。留年。名門・常盤台中学の、看板生徒である『超電磁砲』の汚点。
それは単なる成績不振とは訳が違う。もしそんなことになれば、実家にいる母親に連絡がいく。あの、いつも自分のことを信じてくれている母親の落胆した声。
そして、黒子や、初春飾利、佐天涙子たちの、あの眩しいほどの屈託のない笑顔。それらが、彼女の視界の中で、細かいガラスの破片のように粉々に砕け散っていく最悪の予感がした。
「……嘘、でしょう。だって、ジャッジメントの活動は、学園都市の公式の活動として認められてるんですよ。それが突然無効になるなんて、そんな理不尽な話……」
「規定は規定だ、御坂。学校という組織において、ルールは絶対だ。お前がいくらレベル5だろうと、一人の生徒であることに変わりはない。ただしな」
坂口が、椅子ごと机の縁に少しだけ身を乗り出した。パイプ椅子の脚が床を擦る鈍い音が、静まり返った部屋に不気味に響く。
「俺の裁量で、この出席簿の記録は書き換えられる。『放課後、個別の補習を十分に行った』という体裁で記録を残せば、それで丸く収まる話だ」
「……え?」
一瞬、暗闇の中に希望の光が差したような気がした。補習を受けるだけで進級の危機が免れるなら、いくらでも受ける。
だが、坂口の瞳の底で、あのどす黒く粘り気のある欲望の熱が、ゆらりと醜く揺れたのを、美琴は見逃さなかった。
「ただし、な。それ相応の、『誠意』を、俺に見せてもらう必要がある。教師と生徒という枠を超えた、一対一の、密で、特別な信頼関係の証明を、な」
坂口の太い指が、机の上を静かに這うように伸びてきた。そして、机の上で強く握りしめられていた美琴の手の、ほんの五センチ手前でピタリと止まった。
触れてはいない。だが、その「ギリギリ触れない距離」こそが、彼の持つ圧倒的な優位性と、美琴の退路を断つ意味のすべてだった。
言葉では直接的な要求はしていない。「誠意」の中身は、あえて口にしていない。だが、彼女の優秀すぎる脳は、その空白に当てはまる最悪の可能性を、正確に、そして瞬時に演算して埋めていく。
美琴の頭は、極限状態の中で猛烈なスピードで演算を始めた。
――この場で、ほんの少しだけ電撃を放てばいい。目の前のこの気味の悪い男を吹き飛ばすなんて、第七学区の電力網のほんの一部をショートさせる程度の、瞬きの間の演算で済む。
物理的な力関係で言えば、それは赤子の手をひねるよりも簡単だった。
だが、その一秒後の、残酷な未来を、彼女の賢い頭脳は寸分違わず描き出してしまう。
――教師への暴力行為による、警備員とジャッジメントの緊急招集。黒子は絶対に庇ってくれるだろう。だが、彼女が動けば動くほど、事件は公に晒される。
『常盤台のレベル5、進路指導中に担任教員を電撃で殺傷』――そんなセンセーショナルな見出しが、学園都市中のニュースサイトや掲示板に一斉に流れる。
――両親への報告。あの、いつも優しいお母さんの、泣き崩れる姿。
――常盤台中学理事会の緊急決定。処分は間違いなく退学、良くて無期停学。もう、あの綺麗な制服を着ることも、黒子たちと一緒にジャッジメントの活動をすることもできなくなる。
――そして何より、坂口が口を割らなければ、彼女の無実を証明する証拠は、この密室での口約束の会話だけ。「単位をもらうために、逆上して教師に電撃を放った卑劣な生徒」――それが、御坂美琴という少女の、一生消えない公式な記録になってしまう。
(……ここで吹き飛ばしたら……私の未来ごと……全部消える……)
その絶望的な演算結果が、美琴の右手を、机の下で震えながら静かに握りしめさせた。指の関節が白く鬱血するほど強く。
放電の火花の一粒すら、外には漏らさない。彼女は、最強の矛である超電磁砲としての力を、自らの意志で完全に封じ込めた。
そして、彼女が力を封じたその屈服の瞬間を、坂口は絶対に見逃さなかった。
「……賢いな、御坂。お前がその気になれば、今頃俺は黒焦げの灰だ。だが、お前はそうしなかった。そうだろう? お前には、守るべきものが多すぎる」
坂口の薄い唇の端が、歪に釣り上がった。彼は、たった十四歳の少女の頭の中で行われたあの一秒の葛藤と敗北を、完全に読み切って嘲笑っていた。
「……っ、く……」
奥歯を強く食いしばる。喉の奥から、掠れた、意味を成さない悲鳴のような音だけが漏れた。
反論の言葉が見つからない。頭の中の逃げ場が、分厚い鉄の扉を下ろされるように、一つ、また一つと確実に閉じられていく。
ジャッジメントの支部に駆け込むことはできない。大好きな両親に泣きつくこともできない。友人にも、絶対に言えない。警備員に訴えても――口約束だけの、この男の卑劣な要求を証明する手段が、彼女には何一つ残されていない。
「まあ、そう慌てて答えを出さなくてもいいさ。お前には、選ぶ道がある」
坂口が、机の縁を指の腹でトントンと、リズムを刻むように静かに叩いた。
「まず、お前が自分から『一度だけなら』と、俺に頭を下げる道だ。プライドは辛うじて保てるだろうな」
「あるいは、俺の命令に、一切の抵抗をやめて黙って従う道。人形のように、何も考えなくていい分、楽かもしれないぞ」
「あるいは……一度、俺の誘いをはっきりと拒否する道。ただし、その場合、俺は俺なりの『保険』を掛けさせてもらうことになるがな。……紅茶でも飲みながら、ゆっくり話し合おうじゃないか」
美琴の視界が、屈辱と恐怖の涙でじわりと滲んだ。
示された三つの選択肢。それはどれも「道」などではなかった。どれを選んでも、彼女の輝かしい未来と尊厳を無惨に削り取り、汚すだけの、残酷すぎる罠だった。しかし、坂口は絶対に、その中からどれかを彼女自身の口で選ばせるつもりなのだ。「選ばない」という選択肢は、彼の用意した盤上には存在しない。
(……選ばなきゃ……私の居場所は……消えてなくなる……)
坂口が机の上に伸ばした指先が、スッと動き、美琴の手の甲の産毛にほんのわずかに掠めた。
掠めた、ただそれだけ。
たったそれだけのことで、彼女のまだ誰にも触れられたことのない純潔な肌の下を、強烈な悪寒と鳥肌が駆け抜けた。心臓が跳ね上がり、呼気が一瞬完全に止まる。
次に口から漏れたのは、抗議の言葉ではなく、恐怖で震え切った、細く弱い吐息だけだった。
「……っ、はぁ……いや……」
「よく、考えろ。今夜、寮に戻って、ゆっくりとな。返事は、明日の放課後でいい」
その、一見すると寛容な態度こそが、悪魔のように最も残酷だった。彼は、彼女に助けを呼んだり逃げたりする時間を与えたわけではない。
確実に真綿で首を絞めるように、自分が突きつけた絶望の罠のどれかを、「自分の意志で選んだ」と思い込ませるための、拷問のような猶予を与えたのだ。
美琴は、糸の切れた操り人形のように、ゆっくりとパイプ椅子から立ち上がった。恐怖で膝が微かに笑い、立っているのがやっとだった。
制服のスカートの裾を右手でちぎれんばかりに握りしめて、逃げるように扉に向かう。一度も振り返ることはできなかった。もし今振り返って、あの男の目を見てしまったら、たぶんその場に崩れ落ちて、二度と立ち上がれなくなってしまう。
廊下に出た。
西日は既に深い茜色から、夜の闇が混じる赤黒い色へと変わっていた。
下駄箱に行けば、きっと黒子が心配して待っているだろう。「お姉様! 遅かったですのね!」――あの、太陽のように屈託のない声。
それを今、どんな顔をして聞けばいいのか。彼女には全く分からなかった。
(……どうすればいいの……どれを選んでも……私は、明日から……私じゃなくなっちゃう……)
首筋には、まだ、坂口のあのねっとりとした、服を透かして未熟な身体をまさぐるような卑劣な熱が、べったりとこびりついたまま残っていた。


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