ホテルのドアの向こうにいたのは──妹だった
残業の終わりは、決まって空しかった。
蛍光灯の下で延々と続く書類の山、取引先への謝罪、無駄な会議。
誰に文句を言うでもなく、ひろしはただパソコンの画面と向き合い続けていた。
二十八歳。恋愛の思い出など、記憶の端にさえ浮かばない。
女性経験も、風俗店で数えるほど。
本当は、他人に見栄を張るほどの色気も自信もない男だと、痛いほどわかっている。
夜十時。駅までの道を歩きながら、重い溜息が自然に漏れた。
いつもならそのまま自宅のベッドへ直行するだけ。
だが、今夜だけは何かが違っていた。
胸の奥に溜まった濁ったもやもやが、静かに破裂しそうだった。
ふと、無意識にスマホを手に取る。
指が、アプリをいくつも開いては閉じる。
落ち着かず、なぜか心の中にぽっかりと穴が空いたような感覚。
“自分だけの何かが欲しい”──そんな衝動が、初めて強くのしかかってくる。
「デリヘル 東京 新人」
検索履歴に、指先が震えながら文字を打ち込む。
ほんの悪戯心。
それとも、誰にも見せたことのない孤独の表れだったのかもしれない。
画面の中に現れる、顔を隠した女の子たち。
源氏名だけが踊り、プロフィールの短い説明。
「面接したばかり」「未経験」「初々しさ抜群」
どれも作り話のようで、現実感が遠かった。
だが、**“新人”**のふた文字には、どうしようもない誘惑があった。
「どうせ、バレることなんてない」
心のどこかで自分に言い訳しながら、ホテル名と部屋番号を入力する。
サイトからの通知が、わずかに手の汗を増やす。
「20歳の新人が向かいます」
顔も本名も知らない相手。
それが、今のひろしには気楽だった。
ロビーの時計の針が、夜の静けさを強調する。
エレベーターに揺られて、無機質な廊下を歩く。
部屋のドアを閉めてから、やっと現実感が戻る。
ひろしは深く息を吐き、ベッドに腰を下ろした。
足を投げ出し、天井を見上げる。
不安と期待がぐるぐると回り続け、何度もスマホを手に取り、時間を確認した。
──どんな女の子が来るんだろう。
新人、顔も隠してるし、名前も源氏名。
想像は膨らむばかりだ。
普段なら絶対にしないことをしている自分に、戸惑いもあった。
だが、知らない誰かと、ただ一晩だけ交差する──
そんな夜が、あってもいいと思った。
やがて、静寂を破るように、ドアがノックされた。
ひろしは胸がドクンと鳴るのを感じた。
心の準備ができていない。
だけど、後戻りはできなかった。
「こんばんは……失礼します」
その声は、どこかで聞いたような。
いや、ありえない。
ドアが開いた。
最初は、ただ黒髪の小柄な女の子が、制服のような服を着て立っていた。
マスク越しの目だけが見える。
しっかりと前を向こうとする仕草に、ひろしは違和感を覚えた。
そして、遥も、目を見開いた。
「──……え?」
一瞬、時が止まる。
遥が、まるで幽霊でも見たように、ひろしの顔を凝視していた。
その瞳に、強い驚きと困惑が浮かぶ。
「……お兄ちゃん? なんで……」
震えた声。
明らかに遥も想定外だった。
遥は、店の人から「二十代後半の男性客」としか聞かされていなかった。
部屋番号もホテル名も、ただの仕事の一環。
まさか、ドアを開けた先に自分の兄がいるなんて。
二人の間の空気が、急激に冷たく、そして熱くなる。
「……なんで、お前がここに……」
ひろしは咄嗟に声を低くした。
妹とは、ここ数年ほとんど会話もない。
家族だからこそ、互いのプライベートに触れようとはしなかった。
それが、今夜だけ、全てが交差した。
遥は、唇をかすかに噛みしめ、ドアを背にして立ちすくむ。
「……どうしよう……ほんと、最悪……」
お互い、息をするのも気まずい。
部屋の空気が一層重くなる。
「すぐ帰るわけにもいかないんだよ……
お店の人に、時間までいろって言われてるし……
それに、急に戻ったら怒られるから」
遥の声は小さく、かすかに震えていた。
二人とも立ち尽くしたまま、沈黙だけが支配する。
やがて遥はゆっくりとマスクを外し、テーブルの端にそっと座った。
ひろしもベッドに腰を下ろし直す。
「……今日のこと、絶対に誰にも言わないで」
遥が真剣に、すがるように見つめてくる。
「お兄ちゃんも、……こんなとこで、何してるの?」
責めるというより、本気で混乱している。
ひろしは、下を向いたまま言葉を探す。
「……仕事で色々あってさ。なんか、こう……
普段はやらないことを、したくなっただけ」
それ以上の言い訳は出てこなかった。
遥は、少し間を置いて、ふうと息をついた。
「……なんか、やだな」
それだけ呟いて、遥は自分の膝を指でいじる。
沈黙は長い。
部屋の外のエアコンの音だけが、妙に大きく響いてくる。
やがて、遥が突然、ひろしの方へ少し身を乗り出した。
「ねぇ、お兄ちゃん。
せっかく来たんだから、無駄にしたくないんでしょ?」
その言い方は、仕事で身につけたものだった。
「……お小遣いくれたら、サービスするよ」
サービス──
その響きが、兄妹の関係を簡単に超えてしまう。
ひろしは、何も言えずに固まる。
「お兄ちゃん、目的あって呼んだんでしょ?」
「どうせお店に取り分いっぱい取られちゃうし、私にも直接ちょうだいよ」
遥の声は震えていたが、どこか開き直りも感じた。
「……もちろん、やりたくなかったらいいけど。
でも、今日の分のお小遣いは、私がもらわなきゃいけないから」
本音と建前が混じった、複雑な気持ち。
ひろしは財布を手にするが、まだ決断ができずにいる。
妹が、こんな場所で、
こんな提案をしてくる夜が来るなんて、一度だって思ったことはなかった。
部屋の空気は、動くたびに音を立てそうに張り詰めている。
それでも、二人とも席を立たない。
密室の静けさの中、ひろしの鼓動と、遥のかすかな吐息だけが重なっていく。
心の中で何度もためらい、何度も距離をはかり直し、
二人の距離は、まだ決定的に踏み越えることなく、
不安と期待と、禁じられた緊張が静かに満ちていく。
──この夜の記憶が、ふたりに何を残すのか。
まだ、誰にもわからなかった。
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