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オフィスレディーが堕ちる夜―純愛か絶望か・・・(序章)vol.1
静寂に包まれたオフィス。無機質な蛍光灯が放つ青白い光は、夜更けのフロアにどこか孤独で、それでいてひっそりとした熱を孕んだ異質な雰囲気を作り出していた。
外のビル群はすでに深い闇に沈み、ブラインドの隙間から覗く街路には時折、行き交う車のヘッドライトが虚しく光の帯を引くだけだ。人々が家路につき、通りからも雑踏のざわめきや足音が完全に消え去った午後十一時。空調の微かな稼働音だけが単調に響くこの広い空間に残されているのは、課長のひろしと、そして新入社員である寿子の二人だけだった。
寿子はまだ二十二歳。大学を卒業して入社したばかりの彼女は、どこか初々しく、オフィスに漂う夜の大人の世界にも、まだ馴染みきれていない様子だった。
細く白い指先でキーボードを叩く姿は、不慣れながらも真剣そのもので、ふとした拍子にフレームの細い眼鏡の奥から覗く瞳は、社会の擦れを知らない無垢な輝きに満ちている。膝丈のタイトスカートから伸びる脚は、ストッキング越しでもその滑らかさが伝わってくるほどに瑞々しい。
静寂の中、かすかに響くのは、二人だけのタイピング音と、それぞれの微かな呼吸の音だけ。寿子の小さな息遣いは、時折、戸惑うように小さく波立つ。彼女の座るオフィスチェアが、わずかに身じろぎするたびに軋む音を立て、その度にひろしの意識は、自然と斜め前に座る寿子へと引き寄せられていった。
普段の昼間ならば絶対に味わうことのない、夜更けの職場特有の、どこか密室めいた濃密な空気。寿子はその異質な静けさに、どこか心細そうに小さく身を縮めながらも、ひたむきにパソコンのモニターへと向かっていた。
「……課長、この表の集計なんですが、ここで合っていますでしょうか?」
寿子は、静寂を破るのを躊躇うような小さな声で問いかけると、席を離れてひろしのデスクへと歩み寄ってきた。その控えめな仕草にはまだ学生の幼さが残り、社会人になったばかりの初々しさが滲んでいる。
無意識なのか、あるいは長時間のデスクワークによる緊張のせいなのか、白いブラウスの襟元が少しだけ緩み、華奢な首筋から肩にかけての滑らかなラインが、蛍光灯の下で白く、淡く浮かび上がっていた。ほんのりと紅潮した頬が、夜のオフィスという非日常感の中で、ひどく無防備に見える。
ひろしは手元の資料に目を落としつつも、すぐ横に立った寿子の気配に否応なく意識を奪われていく。隣に立つ彼女から、ほのかに甘いフローラル系のシャンプーの香りが立ちのぼってきた。その香りは、深夜の仕事の疲労を忘れさせ、無味乾燥なオフィスの夜に、ふわりと柔らかい彩りを与えている。
「大丈夫、合ってるよ。ここも……見やすく丁寧に作ってくれてありがとう。助かるよ」
寿子はその温かい言葉に安堵したように、強張っていた表情を緩めて小さく微笑んだ。だが、その控えめな微笑みの奥には、まだ見ぬ大人の男性の世界への、漠然とした憧れや戸惑いのようなものがちらりと覗いていた。
「……私、まだ仕事が遅くて……。課長のお役に立ててますか?」
かすれそうな、けれど純粋な期待と不安を孕んだ彼女の声が、夜の空間にふわりと溶けていく。
ひろしは優しくうなずいて答えた。「寿子はとても頑張ってるよ。でも、あんまり無理はしないでね」
寿子は褒められたことが少し恥ずかしかったのか、頬を染めてうつむいた。肩まで伸びた艶やかな黒髪がさらりと頬にかかり、うなじの透き通るような白さが一瞬だけ覗く。
「……はい。ありがとうございます」
遠慮がちに返事をした寿子は、また自分の席へ戻っていく。その後ろ姿には、どこか影のような儚さが宿っていた。オフィスの椅子が静かに回る音、パソコンの小さな冷却ファンの音、それらすべてが夜の静けさのなかで、二人だけの微細なリズムを奏でていた。
しばらくの間、二人の間に言葉はなかった。それぞれが自分の仕事に没頭しつつも、しかし互いの存在を確かに意識し合っている。そんな妙な緊張感と、言葉にできない甘やかな期待が、オフィスに薄く漂い始めていた。
寿子はときおりパソコンの画面から目を上げ、ひろしの広い背中をちらりと見つめている。その視線には、淡い好奇心と、自分でもまだ名前のつけられない未知の感情がまじっていた。
(課長……遅くまで、疲れてないかな……)
彼女はずっと、男性に対してどこか距離を置いて生きてきた。交際経験はおろか、男性と手を繋いだことすらない。友人たちが恋愛の話で盛り上がるたび、寿子はただ微笑んで聞き役に徹していた。極度の恥ずかしがり屋で、男性の目を見て話すことすら苦手なのだ。
自分はきっと、これからもずっとこのままだと思っていた。でも今、この夜の密室のようなオフィスで、寿子の心には何か新しい、温かい芽が静かに息吹いていた。ひろしの落ち着いた声、ふとした時の優しい眼差し。それらが、彼女の固く閉ざされていた心の扉を、少しずつノックしている。
ひろしもまた、そんな寿子の微細な変化に気づきつつあった。ふと手を止めて彼女の方を見ると、視線がぶつかり、寿子はびくっとしてすぐに目を逸らす。耳の裏まで赤く染まったそのうぶな反応が、ひろしの心を不意に揺らした。
「疲れてないか? 寿子、キリのいいところで、もう帰ってもいいんだぞ」
ひろしの気遣う言葉に、寿子は慌てて首を横に振った。
「いえ、大丈夫です。……課長と一緒にいると、不思議と、落ち着くんです」
寿子の、無意識の好意がこぼれ落ちたような小さな呟きが、夜の静寂に吸い込まれていく。言った直後、ハッとして彼女はさらに顔を赤くした。
「そうか……。でも、本当に無理はしないでな」
「はい……」
そのやりとりは、ごくささやかな、上司と部下の日常的なものに過ぎなかった。だが、寿子の中には、炭酸の泡が弾けるような小さなトキメキが広がっていく。どこか胸の奥がくすぐったく、いつもより自分の心臓の鼓動が、ひどく大きく感じられた。
真っ暗になった窓ガラスに薄く映る自分の姿をぼんやりと見つめ、寿子はそっと桜色の唇を噛んだ。なぜだか顔が熱い。胸の奥がそわそわして、これまで知らなかったくすぐったい気持ちが溢れてくる。
(どうして、こんなに……胸がどきどきするんだろう……)
寿子の戸惑う心の声が、小さな波紋となって夜の静けさの中に広がっていく。
彼女は決して、自分から男性に距離を詰めたり、積極的に話しかけたりできるタイプではなかった。学生時代も、男子から話しかけられるだけで俯いてしまうような、極端に臆病な性格だったのだ。自分には大人の恋愛など無縁だと思っていた。でも、今夜は違う。
ひろしのさりげない優しさが、寿子の狭かった世界に、新しい光を差し込ませていた。
もう一度、資料の数字の確認を頼もうと席を立ち上がった瞬間だった。ふと、ヒールのつま先が机の脚に引っかかり、寿子は小さくバランスを崩してよろめいた。
「あっ……」
小さな悲鳴を上げた寿子の身体を、咄嗟に立ち上がったひろしがそっと腕を伸ばして支える。
「大丈夫か?」
「……はいっ、すみません……」
寿子の細い腕を掴むひろしの手のひらから、大人の男性特有の高い熱が伝わってくる。ほんの数秒、わずかに重なった二人の距離。ひろしの胸板が目の前にあり、男性用の整髪料と、微かな汗の匂いが鼻腔をくすぐった。鼓動が一気に跳ね上がり、寿子は思わず顔を背けた。シャツ越しに触れられた腕の皮膚が、そこだけ火傷したように熱い。
「……ごめんなさい、私、どんくさいから……」
ひろしの腕からそっと離れながら、寿子は消え入りそうな声で謝った。
「そんなことないよ。最初は誰だって、失敗するもんさ。怪我がなくてよかった」
ひろしの落ち着いた言葉は、寿子の強張った心をふんわりと包み込む。オフィスの緊張した空気が、少しだけ甘く和らいだ。
やがて、時計の針がゆっくりと深夜の零時へ近づいていく。寿子は自分のデスクの書類をまとめ、机の上に小さく並べ直した。その仕草ひとつひとつが、どこか慎ましく、それでいて女としての淡い色気すら感じさせる。
「……課長、今日は本当にありがとうございました」
寿子は、きちんと揃えた膝に手を置き、頭を下げて礼を言った。だが、その声には今までにない温かさと、夜の魔法にかけられたような、わずかな期待が混ざっていた。
「こちらこそ。寿子がいると、本当に助かるよ。一人じゃ心が折れてたかもしれない」
冗談めかして笑うひろしを、寿子はそのまま上目遣いに見上げる。夜のオフィスに、ふたりきりの静寂が続く。
(まだ……帰りたくないな……)
もし、この夜がもう少しだけ続くなら、自分はどんなふうになれるのだろう――。そんな未知の自分に対する予感が、寿子の心の奥に静かに、だが確実に芽生えていた。
オフィスの暗いガラス窓に、寿子の紅潮した横顔が映る。ふいに風がビルの隙間を抜け、わずかな隙間風がブラインドを小さく揺らす。その微かな音を聞きながら、寿子はこの夜の終わりを少しだけ名残惜しく感じていた。
誰もいない閉ざされた空間で、まだ知らない自分に出会うための、ほんの序章。
この夜の続きに何が待っているのかを、うぶな寿子も、そしてひろしもまだ知らなかった。
だが確かに、ふたりの間に決定的な何かが芽生え始めている――
静かで、甘く危険な残業の夜。その予感だけが、優しく、そして濃厚にオフィスを満たしていた。


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