密事の代償――脅迫の夜、寿子の揺れる心
あの日、深夜のオフィスで――
課長ひろしに後ろからそっと抱きつき、股間に手を伸ばしたあの衝動は、
寿子にとって初めての大胆な本能だった。
その甘い高鳴りと幸福な余韻を胸に抱えたまま、寿子は翌日も、またその次の日も、ひろしと普段どおりに仕事をしていた。
だが、その幸福が、不意に切り裂かれる瞬間が訪れる。
それは、残業明けの疲れを引きずって、ひとり帰宅しようとした金曜日のことだった。
オフィスのロッカーに、見慣れない封筒が無造作に差し込まれていた。
「……?」
無機質な白い封筒。
差出人も、会社名も、何も書かれていない。
封を切ると、ホテルの名刺と共に、たった一枚の手紙が。
『会社にあのことをバラされたくなければ、今夜21時、○○ホテル305号室に来い』
目の前が一瞬、真っ白になる。
手が小さく震え、心臓が耳の奥でバクバクと高鳴る。
“バラされたくなければ”――
それが何を指すのか、寿子には痛いほど分かっていた。
あの夜の情事。
コピー機の後ろで、ひろしの背中に甘えるように密着し、
スラックス越しに指先で男の熱を確かめたあの瞬間――
あれは、ふたりきりの秘密のはずだった。
誰にも見られていないと、信じていた。
でも、警備員の目が、あのガラス越しに光っていたのかもしれない。
寿子は無意識に自分の胸元を抱きしめ、
小さく身をすくめる。
「どうしよう……課長に迷惑かけちゃう……」
心のなかで何度も叫ぶ。だけど、
会社中に噂が広まったら、課長も、自分も終わってしまう。
その夜――
寿子は、迷いに迷った末に、指定されたホテルの前に立っていた。
夜の冷たい風にさらされながら、
その場から動けないでいると、
背後から見覚えのある制服姿の男が現れた。
「……よく来たな。感心だよ」
低く、ぬめりのある声。
それは、確かに夜間のオフィスで見かけたことのある、警備員の男だった。
年齢は40代後半。無精ひげが目立ち、
目の奥にいやらしい光を灯している。
寿子は身をすくめ、咄嗟に後ずさる。
「……な、なんで私……」
恐怖と羞恥、混ざり合う声。
警備員はにやりと笑い、
手にしたスマートフォンを寿子の前に突き出した。
そこには、コピー機の影でひろしに抱きつき、股間に手を添える寿子の姿が、
静止画で鮮明に映っていた。
「全部カメラに映ってるんだ。
可愛いね、君……こんなこと、会社にバレたら困るだろ?」
その瞬間、寿子の頬に血が引く。
逃げ出したい気持ちを必死に抑え、
握ったバッグのハンドルが汗で滑りそうになる。
「……で、どうすれば……」
自分でも驚くほど、声が小さく震える。
警備員はホテルのキーを寿子に押し付ける。
「ここに来たってことは、覚悟できてるってことだよな?」
「お前さ、あんな色っぽいことして……男に媚びてるくせに、
本当は感じてたんだろ?」
ひどい言葉に、寿子は俯き、唇を噛みしめる。
身体の奥が、恐怖と屈辱で震える。
「やめて……お願いです。
警察でも、どこでも行きます……」
だが、警備員は一歩も引かず、
「だったら、この写真を全員に送ってやるよ」と
無慈悲な言葉で脅してくる。
寿子の心が、きしむ音を立てる。
“課長にも、迷惑はかけたくない――”
その一心で、
寿子は覚悟を決め、震える手で部屋のカードキーを受け取る。
ホテルのエレベーターに乗り込むと、
鏡越しに映る自分の顔が、蒼白に見えた。
“どうしてこんなことに――”
心のなかで何度も叫びながら、
305号室の前に立つ。
ドアを開けると、すでに警備員は部屋の奥にいた。
カーテンが閉ざされ、
ほんのりと重苦しい空気が充満している。
「ここで素直に言うこと聞いてくれたら、
誰にも写真は渡さない。
……さ、こっちに来い」
寿子は唇を噛み、涙をこぼしそうになりながら、
ゆっくりと警備員の前へ歩み寄る。
警備員は、
寿子の手を無遠慮につかみ、
ホテルのベッドの上に座らせた。
「綺麗だな、お前。普段から、男を誘ってんのか?」
冷たい手が寿子の頬をなぞる。
寿子は、ひろし以外の男性にこうして肌を近づけられるのは初めてで、
恐怖と屈辱で息が詰まりそうになる。
「……どうして……
私はただ、好きな人と、幸せになりたかっただけなのに……」
心の奥で叫ぶ。
警備員は、寿子のブラウスのボタンを無遠慮に外し始めた。
「大丈夫だ。ちゃんと優しくしてやるよ」
その手が、寿子の柔らかな胸元を露わにする。
寿子は抵抗しようとするが、
脅迫の恐怖が、それを許してはくれなかった。
「やっぱり、いい身体してるな……」
警備員の卑猥な手つきに、寿子の心はどんどん壊れていく。
このまま、どうなってしまうのか――
自分の無垢な欲望が、
こんな悪夢のような夜を呼んでしまったのか。
涙で滲んだ視界の中、
寿子は必死に耐えようと、唇を噛みしめ続ける。
(課長……助けてください……)
心の奥底で、
ただひろしの名を、何度も叫び続けていた。


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