静寂のなか、ふたりきりの家で——遥とひろしの微妙な距離感
夕暮れが、街にゆっくりと溶けていく。
居間の窓から差し込む柔らかな光が、少し古びた畳をオレンジ色に染めていた。
部屋の隅に置かれた時計が「カチ、カチ」と時を刻む音だけが、静けさの中に細く響いている。
両親は今日、遠い親戚の法事で朝から家を空けている。
帰ってくるのは、日付が変わる頃だろう。
「夕飯は各自でお願いね」
母のその言葉が、今もどこか耳に残っていた。
ひろしは居間のソファで本を読みながら、何度もちらりと玄関を気にしていた。
妹——遥の帰宅予定時刻が、そろそろだからだ。
それでも、今日に限って時間の進みが妙に遅く感じられる。
静かな家に、誰かが戻ってくる、そのわずかな期待と不安。
何かが変わる、そんな予感が胸の奥に静かに、しかし確かに揺れていた。
やがて、玄関の引き戸が「ガラリ」と音を立てて開く。
「ただいま……」
遥の声は、どこか小さく、気まずそうだ。
高校の制服に身を包んだ遥は、いつもより早足で靴を脱ぎ、そそくさと居間を横切ろうとする。
ひろしと目を合わせないように、無意識の壁を作っているのが分かる。
それでも、ひろしはあえていつも通り、優しい声で妹に声をかけた。
「おかえり。今日は早かったね、遥」
「……うん、部活、休みだったから」
遥は短く答え、すぐに視線を逸らす。
彼女の長い黒髪がふわりと揺れ、頬に影を落とす。
ひろしは、妹のその仕草をよく知っていた。
遥は、兄に対していつも一定の距離を保とうとする。
いや、それは“避けている”に近い。
成長するにつれ、遥は明らかにひろしを避けるようになった。
幼いころはあんなに懐いていたのに、思春期に入ると、彼女はまるで触れてはいけないガラス細工のような、儚くも近寄りがたい存在になってしまった。
——どうしてだろう。
何か、きっかけがあったわけではない。
遥がひろしを避ける理由は、本人にしか分からない。
ひろしはただ、妹のその変化に戸惑い、寂しさを感じるばかりだった。
「今日、晩ごはんどうする? 母さん、作り置きしてくれてたよ」
「……自分で、食べるから。先に部屋、行くね」
遥は兄の視線を受け止めきれず、逃げるように階段を上っていった。
その背中はどこか、怯えた小動物のようで、ひろしは胸の奥が締め付けられるのを感じた。
残された居間には、再び静寂が降りる。
——これが、ふたりきりの家の空気なのか。
ひろしはため息をつき、何気なく右手を見つめた。
今朝、不思議なことがあった。
まるで自分の意志で、周囲の空気や人の気配を、ほんの少しだけ変化させられるような、奇妙な感覚。
「……まさか、そんなことあるはずないよな」
小さな囁きが、部屋の静寂に溶けて消える。
けれども、もしそれが本当だとしたら——。
思いはすぐに掻き消した。
何よりも、遥の存在が、ひろしの理性を強く引き留めている。
遥は兄のことが苦手だ。
その事実は、ひろしにとって何よりも重く、切実なものだった。
……もっと普通の兄妹なら、気軽に話せて、笑いあえるのに。
ほんの少し、手を伸ばせば届く距離。
けれど、触れてはいけない透明な壁が、ふたりのあいだに確かに存在している。
ひろしはふと、遥の部屋の扉を見やる。
その奥で、彼女はいま、どんな気持ちでいるのだろうか。
兄と妹、ふたりきりの夜が、静かに、けれど確かに幕を開ける。
外はすっかり、夜の気配に包まれつつあった。
時計の針が、静かに進む。
ふたりの間に流れる、長い静寂と微妙な緊張。
この時間が、永遠に続くような錯覚すら覚えながら、ひろしは自分の心の奥に沈んだ想いを、そっと見つめていた。
しかし、どこかで何かが動き出す予感が、胸の奥で静かに疼いていた。
マワサレヒメ -白濁の記憶-
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