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【眠る妹への禁断の夜】兄の歪んだ衝動と催眠の罠:vol.1(忍び寄る影)
壁掛け時計が深夜零時を告げても、ひろしはリビングのソファから動けずにいた。
テーブルの端に置かれた紙コップ。中身はほとんど残っていない。コンビニで買ったストレートのリキュール。その底に、ひろしは昨日のうちから準備していたものを溶かしておいた。市販の睡眠導入剤を細かく砕いて混ぜた、ほとんど無味無臭の液体。遥がバイトから帰ってきて、何の疑いも持たずに飲んだのを、ひろしは台所の陰からずっと見ていた。
(飲んだ……)
それだけを確認した瞬間、心臓が喉まで跳ね上がった気がした。
遥はバイト帰りに少し飲んできたらしく、ドアを開けた瞬間から頬がほんのりと赤かった。「あー疲れた」と呟きながら紙コップを受け取り、「何、急に気を遣ってるの」と眉をひそめた。兄への警戒心は最後まで崩れなかったが、疲弊した身体がアルコールを求めていたのか、数口だけ飲んで「ありがとうとは言わないから」とソファに沈み込んだのだった。それがいつもの遥らしかった。用が済めば壁を作る。ひろしのことを見ていない。最初からそういう妹だった。
そのやりとりから三十分が経つ。今の遥は、もう何も言わない。
薄く開いた唇から、規則的な吐息が漏れている。膝を片方だけ立てて横向きに丸まったような姿勢。ショートパンツの裾から伸びた白い太ももの内側が、オレンジの間接照明に照らされてなだらかな陰影を描いていた。バイトの制服を着替える前に眠ってしまったらしく、シンプルな白いブラウスのボタンが一番上だけ留まっていない。首元がわずかに開いている。胸のあたりが呼吸のたびにゆっくりと上下した。
ひろしは膝に手を置いたまま、長い時間をかけてその光景を見つめていた。こんなにじっくり遥の顔を見たのは、何年ぶりになるだろう。普段は視線を合わせることすら許されない。台所で目が合えば逸らされ、廊下ですれ違えば足を速められる。ひろしが話しかけるたびに遥はスマートフォンに視線を落とし、リビングにいても同じ空間に存在していないような空気を作った。
(……本当に、眠ってる)
幼い頃からそうだった。遥にとってひろしという存在は最初から「いないほうがいい」カテゴリに収まっていた。理由を考えたことがある。容姿のせいかもしれない。内向的すぎる性格のせいかもしれない。あるいは単純に、兄というものが鬱陶しいだけなのかもしれない。どれが正解でも、ひろしにできることは何もなかった。会話は成立しない。気を遣っても伝わらない。そのうちに、話しかけること自体をやめた。
それでも、ひろしは遥のことを好きだった。
妹として。女として。どちらの感情が先だったかはもう判然としない。ただ、遥がバイト先の男の子の話を電話でしているのを偶然聞いた夜、ひろしは自分の手が震えていることに気がついた。嫉妬だとわかるまでに時間がかかった。童貞であることを棚に上げて抱いた、どうしようもなく歪んだ独占欲だと認めたのはそれからさらに後だ。遥の視線が他の誰かに向かうたびに、胃の底が締め付けられるように痛んだ。その感情に名前をつけることは、ずっと避けてきた。
ひろしはゆっくりと立ち上がり、音を立てないようにソファへ近づいた。
一歩。また一歩。
近づくほどに、遥の体温が皮膚で感じ取れる気がした。シャンプーの匂い。それと、バイト帰りの微かな疲れた汗の匂い。普段なら絶対に嗅げない距離。ひろしはソファのすぐ傍で膝をつき、眠る遥の顔を真横から見下ろした。
まつ毛が長い。目を閉じているとよくわかる。
頬のラインが柔らかく、高校生みたいに幼い輪郭をしている。小柄で、細くて、まだどこか子どもっぽい体型。大学生になっても変わらない、あどけなさの残った顔つき。睡眠薬とアルコールで弛緩した口元はわずかに開いており、吐息が規則的に白く霞んで見えた。細い首筋の脈が、規則正しく、弱々しく、小刻みに動いていた。
(……こんなに、近くで見たのは……初めてだ……)
ひろしの右手が、自分の意志とは別のところで持ち上がった。震えている。指先を遥の頬へとゆっくりと近づける。触れる直前で止まる。触れた瞬間に何かが変わるとわかっていて、それでも止まれなかった。
指の腹が遥の頬に触れた。
驚くほど柔らかかった。アルコールで火照ったのか、皮膚が微かに熱を持っている。ひろしの胸が激しく鳴った。この体温は本物だ。想像の中で何度も触れた感触とは全く違う、生きた人間の、妹の肌だった。指の先から伝わってくる滑らかさと温もりが、ひろしの思考を薄く塗りつぶしていく。
遥の体が、ほんの少し動いた。
「……んぅ……」
夢の中から届いてきたような声だった。低い。微かな抵抗感のある声。しかしそれ以上は動かず、まつ毛は閉じたまま、吐息だけが唇の隙間から漏れ続ける。ひろしは息を止めた。数秒間、何も動かなかった。時計の秒針だけが単調に刻む。遥の呼吸は変わらなかった。規則正しく、緩やかで、深い。睡眠薬が効いている。意識は戻らない。
(……遥……)
指先が頬から耳たぶへ移動した。薄くて柔らかい耳たぶ。そこから首筋へ。指の腹を押し当てると、脈の振動が直接伝わってくる。速くも遅くもなく、ただ静かに打ち続ける脈動が、遥がここに生きているという事実をひろしに伝えていた。自分が嫌いな兄の手に首筋を撫でられていることも知らずに、遥は眠り続けている。
今夜、この家には二人だけだ。
両親は明日の夜まで帰らない。誰も来ない。電話が鳴ることもない。深夜の住宅街はすべて眠っている。ひろしが何をしても、遥が声を上げても、外には届かない。その事実が、胸の奥で重く、じわりと熱を持った。
ひろしは遥の白いブラウスの襟元に視線を落とした。そこから覗く鎖骨のライン。閉じた胸元の影。アルコールの熱のせいか、デコルテのあたりの肌がうっすらと紅潮して、細い血管が透けて見えた。これほど無防備な遥を、これほど近くで見ることは、これまで一度もなかった。目を逸らされることも、壁を作られることも、「うるさい」と言われることも、今夜だけはない。
「……遥」
呟いた声は、自分でも驚くほど掠れていた。返事は、ない。
ひろしは遥の肩に、両手をそっと置いた。細い。こんなに細いとは思っていなかった。衣服の上からでも、肩甲骨のかたちが指の腹に伝わってくる。遥の呼吸は乱れない。ただ、胸が緩やかに上下し、唇から温かい吐息が静かに零れ続ける。その穏やかさが、ひろしの中で何かを決定的に解き放った。
ひろしの欲望が、低く灼けるように腹の底で渦を巻いた。童貞の二十年間で一度も感じたことのない種類の熱だった。恥ずかしさでも罪悪感でもない。ただ純粋に、目の前の小さな存在を自分だけのものにしたいという、醜くて正直な衝動だった。ずっと壁を作ってきた遥が、今夜だけは何もできない。抵抗できない。逃げられない。その事実が、ひろしの内側で長年凍っていた何かを溶かしていく。
ひろしはゆっくりと息を吐いた。震えは止まらないが、手だけは確実に動いていた。遥の肩から離れた指が、頬へと戻る。眠る妹の顔に、これ以上ないほど近づいた顔を寄せながら、ひろしは今夜の長さを思った。
止まれる場所は、もうどこにもなかった。


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