スイートルームの夜──言葉より深く、唇を重ねて
「……静かなところに、行こうか」
そう囁いた課長の声に、
寿子は一瞬、胸の奥がきゅっと詰まるような感覚を覚えた。
彼の瞳は、真っ直ぐだった。
下心ではない。
けれど、その奥にある感情は、どうしようもなく熱を帯びていた。
助手席で小さく頷くと、
課長はエンジンをかけ、ゆっくりと車を街へと走らせた。
海辺を離れ、夜の街に向かって進む車内は、
沈黙に包まれていた。
だが、その静けさは不安ではなく、
むしろ、何かが始まる前の緊張と高揚に満ちていた。
寿子の胸は静かに、しかし確実に鼓動を早めていた。
「……どこに、行くんですか……?」
「ホテルだよ。シティホテルのスイートルーム。
静かで、誰にも邪魔されない……君が、安心できる場所」
その言葉に、寿子は喉を鳴らした。
「……わたし、何か……変なこと、しちゃうかもしれません……」
課長は微笑む。
「いいんだ。変でも、恥ずかしくても、全部そのままでいてくれ」
それだけで、寿子の指先が震えた。
高層ビルの上層階、
スイートルームのドアが静かに開く。
ホテルマンの足音が遠ざかり、ドアが閉まると同時に、
完全な密室がふたりを包んだ。
上質なカーペットに、重厚なソファ。
間接照明が部屋を優しく照らし、奥にはダブルベッドが静かに存在している。
寿子はその空間に一歩、足を踏み入れると、
まるで異世界に来たような錯覚を覚えた。
「わあ……」
思わず、声が漏れる。
まるで映画のワンシーン。
そんな場所に、自分がいることが信じられなかった。
課長はネクタイを外しながら、静かに言った。
「飲み物は何か欲しい?」
「……いえ、今は……何も」
寿子は、課長を見つめた。
そして、ゆっくりと歩み寄る。
ベッドの脇に立った彼の前で立ち止まり、
「……キス、してもらえますか」
と、か細く尋ねた。
課長は答えず、
寿子の腰に手を回し、そっと引き寄せた。
そして――
唇が重なる。
最初は優しく、確かめるように。
次第に、課長の手が彼女の背に回り、
寿子の唇を吸い上げるように、深く、深く求め始めた。
ちゅ……ぬちゅっ……ん、ちゅぱ……
舌が絡まる。
互いの吐息が入り交じり、
口内でぬめりとした感触が広がる。
寿子の指が課長のシャツを握りしめ、
身体が、自然に彼に沿って傾いていく。
「ふっ……んっ、んん……んちゅっ……」
舌が巻きつき、唾液が混ざり合う。
口角から伝う透明な糸が、顎を濡らしていく。
ぴちゃ、ちゅる、ぬちゅ……っ
音が淫らであるほど、
心がほどけていく。
寿子は自分でも驚くほど、課長の舌を求め、
唇を吸い、舌先で彼の上顎をくすぐった。
その動きに、課長の腰がわずかに震える。
彼もまた、理性を保つのに必死だった。
抱きたくて仕方がない。
だが、寿子の心が崩れないように、
丁寧に、ゆっくりと求めていた。
寿子の背を撫でる手が、
やがて肩甲骨を優しくなぞり、
髪を指先に絡めながら、再び唇を奪った。
深く、深く。
舌を沈めるように。
熱いキスが、寿子の内側を溶かしていく。
「……んんっ、課長……好き……です……」
「……このまま、溶けてしまいたい……」
小さく震える言葉が、
ふたりの唇のあいだから零れる。
課長はそのまま、額を寿子の額に重ね、
静かに言った。
「……今夜は、何も急がないよ」
「俺たちには、もう時間がある」
寿子の瞳に、再び涙が浮かぶ。
「……ありがとう……ほんとに、ありがとう……」
その涙は、悲しみではなく、
初めて「抱かれたい」と願った夜に、
受け入れてくれる誰かがいることへの安堵だった。
スイートルームの照明が、ふたりの影を重ねていた。
唇は、何度も重なり、
触れるたびに深さを増していく。
まだ行為に至らぬ夜。
だがそれ以上に、深く抱き合う夜だった。


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