▶ 名前変換:入力フォームを開く
オフィスレディーが堕ちる夜:vol.38(波音と優しいキス)
言葉を選び、できるだけ柔らかく。けれど、自分がいかに取り返しのつかない罪を犯したのかという真実からは逃げないように。
遥は、震える声でぽつりぽつりと話し始めた。
「最初は、ほんの少し、誰かに抱きついただけだったのに……」
あの日、少しだけ寂しくて、誰かの体温に触れたかっただけだった。それが全ての歯車の狂い始めだったとは、その時の遥には知る由もなかったのだ。
「そのあと、“これもしなきゃいけない”“あれもしなきゃいけない”って……男の人たちの要求がどんどん、エスカレートしていって……っ」
自分の意思など何一つ介在しない暴力的な欲望の渦。一度でも身体を許せば、そこから先はどこまでも堕ちていくしかなかった。
「誰かに相談したかったけど……課長にも、絶対に迷惑をかけたくなかった……! 自分で、なんとかしなきゃいけないって思って……」
男たちに囲まれ、無理やり服を剥ぎ取られて純白の肌を無遠慮にまさぐられた時の恐怖と絶望。誰かに助けを求めたかった。けれど、自分がこんな浅ましい真似をしていると知られれば、もう二度と元の社会には戻れない。その恐怖が遥を縛り付けていた。抵抗すればするほど、彼らの欲望に火をつけるだけだと思い知らされ、最終的にはされるがままに快楽の波に呑み込まれてしまったのだ。
「でも、もう……私ひとりじゃ、どうしようもなくなってて……っ。何度も、何度もひどいことされて……」
遥の指先が小さく震える。男たちの硬くそそり立った無数の肉棒に前後を塞がれ、無理やり子宮の奥底に粘着質な精液を流し込まれた感触が、今も鮮明に身体の奥底にこびりついている。あの地獄のような密室で、自分は確実に人間としての尊厳を失い、ただの慰み者へと成り下がってしまった。
「課長……私、ほんとうに、最初は……誰かを困らせるつもりなんて、なかったんです……っ」
涙とともに、言葉がとめどなくあふれ出す。
「ただ、見られたくなかっただけで……課長にも、絶対に知られたくなかったのに……こんな形で、全部……っ」
言葉が途切れ、涙がぽろぽろと膝の上にこぼれ落ちた。
車のなかは、重く冷たい静寂に包まれていた。冬の波の音が、閉ざされたガラス越しに柔らかく、けれど無情に届く。
「……今も、どうしていいか分からないです……。もう、何もかも、元には戻らないんじゃないかって……ずっと、怖いです……っ」
遥は、自分の声が情けなく震えているのを感じながら、勇気を振り絞ってひろしのほうを見た。
「……ごめんなさい……ごめんなさい……っ」
ただ、それだけしか言えなかった。もう自分は、彼の隣に並ぶ資格などない汚れた肉塊になってしまったのだ。あの優しい笑顔を向けてくれていた上司に、こんな下劣で汚らわしい真実を知られてしまった以上、もう明日からどんな顔をして生きていけばいいのかすら分からない。
涙で曇る視界のなかで、ひろしの横顔だけが、静かに波音に溶けていた。
遥の声は、しゃくり上げる涙で激しく揺れていた。車内の空気が、まるで冬の海の夜気そのもののように冷たく、けれどどこか静謐な温度で満ちている。
ひろしは遥の懺悔のような告白を、最後まで黙って聞いていた。その横顔には驚きも、非難も、そして、何の要求もなかった。ただ、深く、遠い場所から遥のすべてを受け止めようとするような、不思議な温かさがあった。
遥はもう言葉を紡ぐこともできず、ひたすら手の甲で涙をぬぐうしかなかった。鼻をすする痛々しい音だけが、車内に小さく響く。
しばらく――ほんの数秒か、あるいはもっと長い時間か、ふたりのあいだには沈黙が流れ続けた。
波の音だけが、変わらぬリズムでガラス越しに響き続けている。
やがて――。
ひろしが静かに、何の言葉もなく、助手席で泣き崩れる遥の肩へ、そっと腕を伸ばした。
その腕は、遥の震える背中をゆっくりと、慈しむように包み込む。
「……あっ……」
遥の身体は、思わず小さくと震えた。男の腕に抱かれることへの恐怖。また無理やり犯されるのではないかというトラウマが、一瞬だけ身体を強張らせる。あの暴力的な夜の記憶が、フラッシュバックとなって脳裏をよぎる。
でも――拒む力は、どこにも残っていなかった。いや、彼の腕から伝わる温もりが、遥から抵抗する意思を完全に奪い去ってしまったのだ。あの日自分を犯した男たちとは全く違う、ひろしの静かで誠実な温もりが、遥の心の奥底までじんわりと染み込んでくる。
ただ、ひろしの広い胸のなかへ、流れるように身を委ねていく。
やわらかな温もり。強くも、乱暴でもない。ただ、限界を超えて壊れそうになっていた心を、そっと下から支えてくれるような、静かで深い抱擁。
「……うぅっ……ひぐっ……」
遥は、ひろしの胸元に顔を埋め、嗚咽まじりの息を重ねた。冷え切っていた頬に、ひろしのシャツの布地が触れる。あたたかな掌が、遥の華奢な背中をゆっくりと、落ち着かせるように撫でてくれる。
無言のまま――ふたりの間には、もう言葉はいらなかった。
ひろしの規則正しい心音が、静かに遥の耳に伝わってくる。遥は、極限まで張り詰めていた自分の心が、ゆっくりとほぐれていくのを感じていた。
(……あったかい……)
涙は、まだ止まらない。けれど、今まで流してきた絶望の涙とは違う。孤独や絶望、底知れぬ恐怖や羞恥――それらの全てが、ひろしの胸の中で、少しずつ溶けていくような、そんな柔らかな温度に包まれていた。汚れてしまった自分を、彼は拒絶することなく、ただこうして黙って抱きしめてくれている。その事実が、遥の胸をさらに締め付けた。
しばらく、無言のまま抱きしめ合う。波音と、二人の心音だけが、車内の空気を優しく満たしている。
やがて、ひろしが、遥の耳元にごく静かに囁いた。
「……何も、心配するな」
その声は、まるで冬の海辺に静かに降る、優しい雪のようだった。決して過去の罪を帳消しにする魔法ではない。けれど、これからの過酷な現実を一緒に受け止めてくれるような、確かな重みがあった。
遥は、ひろしの胸に顔を埋めたまま、はじめて小さくうなずいた。
そして――ひろしがゆっくりと顔を上げ、遥の涙に濡れた頬を両手で優しく包み込んだ。ほんの少しだけ、二人の瞳が見つめ合う。
海辺の夜に、二人だけの時間が止まる。
そして――ゆっくりと、唇が重なった。
ためらいがちに、優しく、ただひたすらに優しく。
遥の震える唇に、ひろしの温もりが触れる。流し続けた涙のしょっぱい味が、唇に残る。自分がどれほど汚れた存在であっても、この人だけは自分を見捨てなかった。
その一瞬だけは、全ての不安も絶望も、夜の波音とともに消えていく気がした。遥はゆっくりと目を閉じて、ひろしの優しさだけを全身で感じていた。
キスは、長くも短くもなく、ただ、傷ついた心に静かに寄り添うためだけの大切な儀式のようなものだった。そこには情欲などは微塵もなく、ただただ純粋な思いやりだけが込められていた。
ゆっくりと唇が離れる。二人は、静かに互いの気配だけを確かめるように、沈黙のまま、再び肩を寄せ合っていた。
窓の外には、いつの間にか冬の綺麗な星がいくつか瞬きはじめていた。遥の涙は、ひろしの腕の中で、ようやく静かに止まっていた。
ここまで読んでくれてありがとう
選択を変えれば、結末は変わります。
別のルートを試すか、他の物語へ。



コメント