揺らぐ境界線、湯気の向こうの思い出
静まり返ったホテルの部屋。
兄妹という枠組みが、紙のように薄くなっていく気がした。
現金を渡した手がまだ熱を帯びている。
ひろしの鼓動は、遥に指摘された“興奮”のまま、落ち着くことを知らない。
遥は札を受け取ると、ほんの少しだけ見せた安堵の表情をすぐに隠し、
テーブルの端に置いていたアメニティセットに手を伸ばした。
「……ねえ、お兄ちゃん」
何気ない声色だった。
だけど、妙に空気を変える。
「一緒に、お風呂……入ろっか」
その言葉に、ひろしの身体がびくりと反応した。
思わず遥の顔を見る。
遥は、少しだけ唇を噛みしめるようにしながら、それでもごく自然な表情で続ける。
「昔はさ、よく一緒に入ったでしょ?」
あの頃はまだ、何の気まずさもなかった。
小さな湯船に二人、泡で遊び、くだらない話をして笑い合った、そんな幼い記憶。
いま、その思い出が、まるで遠い夢みたいに蘇ってくる。
けれど、目の前の妹はもう子どもじゃない。
制服の襟元から覗く素肌。
洗面所の明るいライトに照らされる、大人びた胸元と細い首筋。
そして、どこか大胆な色気をまとい始めた瞳。
「……え、いや、さすがに……」
ひろしは反射的に声を詰まらせる。
困惑と戸惑いでいっぱいだ。
だが、遥はくすりと笑って、ひろしの手首を軽く引く。
「別に、何も変なことしないよ?
ちゃんと背中、流してあげる」
その明るさが逆に、ひろしの心をざわつかせる。
遙は立ち上がり、バスルームの方を振り返る。
ホテル特有の磨りガラス越しに、洗面台のライトがぼんやりと漏れる。
「ほら、お兄ちゃん、昔みたいにさ……」
「今夜だけ、ちょっとだけ、あの頃に戻った気分になろうよ」
遥の声は、どこか寂しさと、大人になった余裕が入り混じっていた。
「今夜だけ、ちょっとだけ」
その言葉が、妙に胸に残る。
ひろしは、一瞬ためらったあと、ゆっくりと立ち上がる。
心の奥に、拭いきれない罪悪感と、抗えない好奇心。
遠い日の“家族の時間”をなぞりながらも、
目の前の妹の仕草や香り、そして艶やかな肌が、
もう二度と子供時代には戻れないことを強く思い知らせてくる。
「……うん、分かったよ」
掠れた声でそう答えると、
遥は嬉しそうに微笑んで、バスルームのドアノブを回した。
湯気とともに、まだ見ぬ境界線が、ふたりを静かに包み込んでいく。
――“あの頃”の記憶と、“いま”の身体。
そのはざまで揺れる兄妹は、今、そっと同じ空間に足を踏み入れようとしていた。


コメント